シトシタシム

はじめまして。御覧いただきありがとうございます。ここでは日常のいろんなところに散在する詩的なものについて徒然なるままに書いていこうと思います。

詩を知らない。ゆえに詩に焦がれる人。

詩ってなんだろう。

唐突ながらわたしの頭にふと落っこちてきた疑問符。

詩ってなに?

 

詩を読んだことがある?と自問すると多分イエスと自答する。

それはどんな詩?と質問を重ねられると、少し考えて、

谷川俊太郎に20億光年の孤独」とか「萩原朔太郎智恵子抄」とかが出てくる。

なんか教科書通りの答えすぎて、ほんとつまらない。

 

ほんとに詩に焦がれてる?

そういうと、少し考えてから、斜め30度ぐらいだけ意識内の私が首肯する。

自信なさげ。

 

教科書に書いてあるような詩を、本当は読んだことがない、ちゃんと。

散文的人間。

(散文を貶めているように聞こえたらすいません。)

 

詩を初めて感じたのは、大学生のころだった。

何年次かは覚えてないけど、ふと出会った本のタイトルに惹かれた。

高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」。

あまり詳細までは覚えてないけど、そこには「詩の学校」があって、

ギャングたちが詩を教えてほしいというような話が書いてあった気がする。

 

ただ、私の意識に刻み込まれているのはそういったストーリーではなくて、

(というかこの本には、そんなにストーリーらしいストーリーはない)

一文目から最後まですべてに「詩を感じた」という経験だ。

 

どこをどういうふうに読んで詩を感じたのか?

十年前の当時、何度も読んで答えを出そうとしたけれど、結果自分が納得できる

答えにはたどり着けなかった。

当時、わたしは詩と出会っていたような気がする。

 

だが、就職し日々の忙しさに詩を忘れ、「詩の経験」も遠く彼方に消えていた。

つい最近まで。

 

三十になった私にふと落ちてきた疑問。

詩って何だろう。

 

それはどんなアプローチ・角度・視点で進めば、見れば、考えれば、

たどり着くものなのでしょうか。

いや、そんな方法論を模索しても仕方ないことを、私はすでに知っている。

詩を考えなかった十年間であったにも関わらず、私が詩に向かってやらなくては

いけないことは、すでにそこにあったかのように私の顕在意識に整理されていた。

 

わたしは詩を感じなければいけない。

わたしは詩をつくらなくてはいけない。

 

詩なんて作ったことがないわけだが、

詩を知ること、理解すること、いや頭でじゃなく、経験として

身体的に詩を感じること、それがいまの私には必要なのだ。

 

詩に焦がれる三十歳。

遅いでしょうか。

たぶん十年後に気が付いても、私は同じことをすると思う。

遅いことなどない。

詩と向き合うこと。それが今の私の決意である。