シトシタシム

はじめまして。御覧いただきありがとうございます。ここでは日常のいろんなところに散在する詩的なものについて徒然なるままに書いていこうと思います。

「大人」|詩のような散文、散文のような詩

30歳になり、「いわゆる大人」になったのだと自覚することがある

会社での役職 へこまないおなか 結婚式のたびに着る一張羅

でも「いわゆる大人」だから、ちゃんとした「大人」になれているわけではない

子供と遊ぶ父親のように 髪を整えネクタイにスーツで出かけるビジネスマンのように

そんな「大人」になれているわけではない

ましてや内面の青い果実のごとき 右も左もわからない 近視眼ぶりに

自分でもときどき焦り 狂う

 

もうすこし30の自分は大人だと思っていた と

まわりの友人がたくさんいうものだから、そうだよねと同調するが

あなたの大人とわたしの「大人」はやっぱりどこか違うのではないか

居酒屋を出て深夜の帰路の途中、自問し、自答できない 帰納的思考

 

子供がきらいで その理由は単純明快で 自分が子供だからで

だから私は大人になれない

何になりたいと問われると、消防士やサッカー選手のような具体的な職業はいわないで

いつまでも成長意欲をもち何にでも挑戦を繰り返せる人 なんて抽象表現

五年間付き合った人がいて、愛を知ったみたいなことを達観したかのようだが

あのときぼくがしていたのは、愛だったのか? ごっこではなく?

 

真っ青な海をまえにしても、走って飛び込みに行くことはせずに

準備運動をしてからビーチサンダルを脱ぎ ゆっくり歩いていく

でも子供のときから、ぼくは、走って

海に飛び込むことなんてしなかったかもしれない

 

「童心を忘れないように」

そんなことを言うと、まるで自分が大人になったかのように感じるけど

ぼく/わたしは、きっと大人になんか一生なれないんだろう と

預言者めいた言葉を結びの近くに置いてみる

童心を忘れた子供 

また靴下の片割れをなくしてしまった

まるではじまりの文章を書く時のように。

一文目、はじまりの文章を書く。

わたしはその始まりの瞬間が一番気に入っている。

選ばれた言葉も、言葉を書くその気持ちの高まりも。

 

ただ、言葉を続けるほど、言葉が持つ力も、気持ちの強さも、

書き出しの時に抱いていた、完成のイメージも、

ゆっくりと減衰、消失をしていくことに気が付く。

 

私は何度も何度もそういった経験をしてきたが、

いまだにその事象 ー私はそれを「重力」と呼ぶーを乗り越えるための

方法は分からないし、そもそもそんな方法があるのかもわからない。

 

キャリアの長い作家陣もまた、そういった経験をしている(らしい)。

エッセイ風の記事を読むと、一日・一週間・長い時だと一か月も何も

かけないようなときもあるらしく、また今まで書いてきたものを推敲とは違う

意味ですべてデリートするといったこともあるらしい。

 

もちろん私が抱える「重力」と、彼らが抱える「重力」は

その重みも質も、重さの意味も全く異なるものだろうが、

それでも本質は変わらないのではないか。

 

頭のなかで描いていたときは、空を飛ぶ鳥のように自由な発想であちらこちらへと

思考をめぐらすことができたのが、

いざ書き始めた途端、地面が迫ってくる、いや飛翔していた鳥が重力に逆らえず

落ちてくるときのような感覚にとらわれる。

 

上にも下にも、前にも後ろにも、どこにも枷がなかったのが、

たった一つ目の文章を書いただけで、鳥は籠にとらわれる、空は重力により地面に近づく。

それを避ける方法は、おそらくだが、ない。

文章を書くということはきっとそういうことで、二つ目の言葉は一つ目の言葉と関係を持ち、三つ目の言葉は一つ目・二つ目の言葉からは決して自由でいることはできず、

その後のN番目の言葉は、{N-1}番目までの言葉、また{N+1}番目の言葉たちとも

つながり続けなくてはいけない。

文章を書くということは、それを自覚するということなのだ。

 

だが、思考は変えられる。

私は、「文章を自由に書く」という欲望、初期衝動にとらわれていたが、

本来文章を書くということは、それではない。

自由を求めつつも、しっかりと「地」を作ること。

始まりは自分の体を支えるだけの広さもない狭い地から、徐々に言葉と思考を

つなげていき、地を広げていく。

その広がりが作り続けるほど、その大地の先が作る地平線の向こうは

空とつながっていく。

 

重力と自由。大地と空。

 

まるではじまりの文章を書く時のように。

重力にとらわれながらも、決してそれを避けたり拒絶しないように。

私は言葉と向き合いたい。

 

 

 

 

 

詩的日常?

日常を詩的に生きたい。

とは。

いったいどういうことか?

言ってる本人がわかっていないのに、受け手がわかるわけがない。

 

銀の匙」を書いた中勘助氏のアフォリズムに、

「一年を世事にいそしまうよりは、一日を浄くしよう」というものがある。

 

一日を浄くする。

 

朝の食事を済ませてから、散歩に出かける。

帰った後に読書、もしくは執筆。

昼食、そのあと必要があれば午睡。なければ読書、または執筆。

夕食前の散歩。夕食。そこからは中勘助氏の一日にとって最も享楽的な時間となる。

時には少量の酒で酔い、自作の唄などをうたう。

三度、読書または執筆をしたのち、睡眠。

 

平日の日々を身と心を仕事にとらわれている私からすると、

「なんと呑気な(なんと優雅な)一日だろうか」と思うわけだが、

大切なのは、この何でもない一日の一つ一つの習慣や行為を、

客観的に、安らかな心をもって見ていたことだろう。

 

自身の日々を、それがどんなに仕事に忙殺される日であろうとなかろうと、

このような静謐な心持で振り返ったことがあっただろうか。

長期の休みなどの際には振り返ることもあるが、一日の終わりにその日を

始まりから終わりまで、ざっと見返すようなことは、あまりしたことがない。

 

詩的生活というのは、日々が詩的情緒にあふれた日々のことを指すのではない。

どんな日であろうと、たとえ心がかき乱されるような日だとしても、

その日の一つ一つの事象・行い・心の揺れ動きを、

一度自己から離れ、可能であれば優しい母性のような心で振り返ってみる。

そして一つ一つのことを、たとえその瞬間が怒りや悲しみの負の感情に流されても、

穏やかな気持ちで受け入れる・意味や意義の有無にかかわらず、ただ受け入れる。

 

日常、生活、もっと広い視点でいえば人生というものは、

自分から離れるものではなく、自分が死ぬまでずっと付きまとうものだが、

それを意識的にすっと距離を置いてみる。執心からはがしてみる。

そうすると、自分にふりかかった嫌なことも、普通であることも、日常も

少しだけ優しい気持ちで受け入れることができる。

 

理解があっているかどうかは、今はいったん置いておこう。

「一日を浄く」というのは私にとってそういった意味であり、

わたしの平凡と凡庸を受け入れるための心構えのようなものだと考えている。

 

詩的日常。

言ってはみたものの、はて、とても難しいものなのでないかしらん。

 

詩を知らない。ゆえに詩に焦がれる人。

詩ってなんだろう。

唐突ながらわたしの頭にふと落っこちてきた疑問符。

詩ってなに?

 

詩を読んだことがある?と自問すると多分イエスと自答する。

それはどんな詩?と質問を重ねられると、少し考えて、

谷川俊太郎に20億光年の孤独」とか「萩原朔太郎智恵子抄」とかが出てくる。

なんか教科書通りの答えすぎて、ほんとつまらない。

 

ほんとに詩に焦がれてる?

そういうと、少し考えてから、斜め30度ぐらいだけ意識内の私が首肯する。

自信なさげ。

 

教科書に書いてあるような詩を、本当は読んだことがない、ちゃんと。

散文的人間。

(散文を貶めているように聞こえたらすいません。)

 

詩を初めて感じたのは、大学生のころだった。

何年次かは覚えてないけど、ふと出会った本のタイトルに惹かれた。

高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」。

あまり詳細までは覚えてないけど、そこには「詩の学校」があって、

ギャングたちが詩を教えてほしいというような話が書いてあった気がする。

 

ただ、私の意識に刻み込まれているのはそういったストーリーではなくて、

(というかこの本には、そんなにストーリーらしいストーリーはない)

一文目から最後まですべてに「詩を感じた」という経験だ。

 

どこをどういうふうに読んで詩を感じたのか?

十年前の当時、何度も読んで答えを出そうとしたけれど、結果自分が納得できる

答えにはたどり着けなかった。

当時、わたしは詩と出会っていたような気がする。

 

だが、就職し日々の忙しさに詩を忘れ、「詩の経験」も遠く彼方に消えていた。

つい最近まで。

 

三十になった私にふと落ちてきた疑問。

詩って何だろう。

 

それはどんなアプローチ・角度・視点で進めば、見れば、考えれば、

たどり着くものなのでしょうか。

いや、そんな方法論を模索しても仕方ないことを、私はすでに知っている。

詩を考えなかった十年間であったにも関わらず、私が詩に向かってやらなくては

いけないことは、すでにそこにあったかのように私の顕在意識に整理されていた。

 

わたしは詩を感じなければいけない。

わたしは詩をつくらなくてはいけない。

 

詩なんて作ったことがないわけだが、

詩を知ること、理解すること、いや頭でじゃなく、経験として

身体的に詩を感じること、それがいまの私には必要なのだ。

 

詩に焦がれる三十歳。

遅いでしょうか。

たぶん十年後に気が付いても、私は同じことをすると思う。

遅いことなどない。

詩と向き合うこと。それが今の私の決意である。