まるではじまりの文章を書く時のように。
一文目、はじまりの文章を書く。
わたしはその始まりの瞬間が一番気に入っている。
選ばれた言葉も、言葉を書くその気持ちの高まりも。
ただ、言葉を続けるほど、言葉が持つ力も、気持ちの強さも、
書き出しの時に抱いていた、完成のイメージも、
ゆっくりと減衰、消失をしていくことに気が付く。
私は何度も何度もそういった経験をしてきたが、
いまだにその事象 ー私はそれを「重力」と呼ぶーを乗り越えるための
方法は分からないし、そもそもそんな方法があるのかもわからない。
キャリアの長い作家陣もまた、そういった経験をしている(らしい)。
エッセイ風の記事を読むと、一日・一週間・長い時だと一か月も何も
かけないようなときもあるらしく、また今まで書いてきたものを推敲とは違う
意味ですべてデリートするといったこともあるらしい。
もちろん私が抱える「重力」と、彼らが抱える「重力」は
その重みも質も、重さの意味も全く異なるものだろうが、
それでも本質は変わらないのではないか。
頭のなかで描いていたときは、空を飛ぶ鳥のように自由な発想であちらこちらへと
思考をめぐらすことができたのが、
いざ書き始めた途端、地面が迫ってくる、いや飛翔していた鳥が重力に逆らえず
落ちてくるときのような感覚にとらわれる。
上にも下にも、前にも後ろにも、どこにも枷がなかったのが、
たった一つ目の文章を書いただけで、鳥は籠にとらわれる、空は重力により地面に近づく。
それを避ける方法は、おそらくだが、ない。
文章を書くということはきっとそういうことで、二つ目の言葉は一つ目の言葉と関係を持ち、三つ目の言葉は一つ目・二つ目の言葉からは決して自由でいることはできず、
その後のN番目の言葉は、{N-1}番目までの言葉、また{N+1}番目の言葉たちとも
つながり続けなくてはいけない。
文章を書くということは、それを自覚するということなのだ。
だが、思考は変えられる。
私は、「文章を自由に書く」という欲望、初期衝動にとらわれていたが、
本来文章を書くということは、それではない。
自由を求めつつも、しっかりと「地」を作ること。
始まりは自分の体を支えるだけの広さもない狭い地から、徐々に言葉と思考を
つなげていき、地を広げていく。
その広がりが作り続けるほど、その大地の先が作る地平線の向こうは
空とつながっていく。
重力と自由。大地と空。
まるではじまりの文章を書く時のように。
重力にとらわれながらも、決してそれを避けたり拒絶しないように。
私は言葉と向き合いたい。