シトシタシム

はじめまして。御覧いただきありがとうございます。ここでは日常のいろんなところに散在する詩的なものについて徒然なるままに書いていこうと思います。

詩的日常?

日常を詩的に生きたい。

とは。

いったいどういうことか?

言ってる本人がわかっていないのに、受け手がわかるわけがない。

 

銀の匙」を書いた中勘助氏のアフォリズムに、

「一年を世事にいそしまうよりは、一日を浄くしよう」というものがある。

 

一日を浄くする。

 

朝の食事を済ませてから、散歩に出かける。

帰った後に読書、もしくは執筆。

昼食、そのあと必要があれば午睡。なければ読書、または執筆。

夕食前の散歩。夕食。そこからは中勘助氏の一日にとって最も享楽的な時間となる。

時には少量の酒で酔い、自作の唄などをうたう。

三度、読書または執筆をしたのち、睡眠。

 

平日の日々を身と心を仕事にとらわれている私からすると、

「なんと呑気な(なんと優雅な)一日だろうか」と思うわけだが、

大切なのは、この何でもない一日の一つ一つの習慣や行為を、

客観的に、安らかな心をもって見ていたことだろう。

 

自身の日々を、それがどんなに仕事に忙殺される日であろうとなかろうと、

このような静謐な心持で振り返ったことがあっただろうか。

長期の休みなどの際には振り返ることもあるが、一日の終わりにその日を

始まりから終わりまで、ざっと見返すようなことは、あまりしたことがない。

 

詩的生活というのは、日々が詩的情緒にあふれた日々のことを指すのではない。

どんな日であろうと、たとえ心がかき乱されるような日だとしても、

その日の一つ一つの事象・行い・心の揺れ動きを、

一度自己から離れ、可能であれば優しい母性のような心で振り返ってみる。

そして一つ一つのことを、たとえその瞬間が怒りや悲しみの負の感情に流されても、

穏やかな気持ちで受け入れる・意味や意義の有無にかかわらず、ただ受け入れる。

 

日常、生活、もっと広い視点でいえば人生というものは、

自分から離れるものではなく、自分が死ぬまでずっと付きまとうものだが、

それを意識的にすっと距離を置いてみる。執心からはがしてみる。

そうすると、自分にふりかかった嫌なことも、普通であることも、日常も

少しだけ優しい気持ちで受け入れることができる。

 

理解があっているかどうかは、今はいったん置いておこう。

「一日を浄く」というのは私にとってそういった意味であり、

わたしの平凡と凡庸を受け入れるための心構えのようなものだと考えている。

 

詩的日常。

言ってはみたものの、はて、とても難しいものなのでないかしらん。